ogohさんが葛藤している。
いつか痛い目に遭う、とは思うのだけれども、 いつ痛い目に遭ったのかすらわからないのではないか、 という人間が目につくことが多い。
penfactory.net: 立派な大人#他人の子を叱るべきか?#
街を歩いていると、ひどい人間がよく目につく。
電車の優先席で、動きの緩慢なお年寄りの機先を制して空いた席に座り、してやったり顔の若者とか、
公園で、ゴミやつばなどで汚くなっていない場所に陣取ってはそこをゴミやつばで汚して立ち去っていく若者とか、
あとで、自分たちが年寄りになって席に座らせてもらえなかったり、やってきた公園が汚かったりしても彼らの琴線には響かないのだろうな、と思う。
哀しいことだが、彼らを今ぶん殴っても更生させることはできないのではないか、と思うのである。
なぜなら、そのぶん殴る行為は、
彼らの将来を憂えての愛の拳ではなく、
自分の不快感の代弁者としての憎悪の拳でしかないからである。
その憎悪は、そういった若者がヘラヘラと育ってきてしまっているこの世の中自体への憎悪であるかもしれない。
でも、一人でゲームをしているとおとなしくていいこ、といわれながら、格闘ゲームなどで攻撃性を高めている事実に気づかないまま放置されている。
税制の控除・優遇措置がどんどん悪化して、子供は産まない、結婚もしない、というライフスタイルでないと、人間が生きていけなくなってくる世の中、
そういったものへのやるせない思いが拳に含まれてしまう気がする。
更生させるには、反撃だろうと闇討ちだろうとおそれない、それに遭う自分を想像してもなお繰り出せる、対象への愛がなければできないのではないかと思う。
近所づきあいも、集合住宅で鉄の扉に隔てられた世界で暮らしているとあまり発生しない。
近所の坊主が悪さしているのに気づいて、それが悪さであることを気づかせてやるだけの愛をはぐくむ環境がなくなっていることこそ問題なのだろうが、そういった環境を犠牲にしても進学のできた方々が世の中の舵取りをしているので、並大抵のことでは変わらないのでは、と思うのである。
首都圏を襲う大災害とか、テロとか、世紀末救世主伝説とか、そういうことがなければ、このままじわりじわりと悪い方向に行くだけなのではないかと思うのである。
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